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遺書にしようと思っていた論文
__ 「精神科医の功罪」 ___
仮福 真琴 33歳(1990年12月)筆
あなたは、精神科医にかかろうと思ったことがありますか。
また、現在かかっていますか。
現代では、ストレスの多い時代で精神科が大流行です。
昔に比べちょっとした悩みや症状で、気軽に受診する人が増えています。それも、女性に多い。女性に比べ、男性の方が外でストレスを発散する機会に恵まれているからかも知れません。お酒を飲むとか、お金で女性のサービスをもとめなどお、うさの晴らし方があるのでしょう。
女性に多いそのちょっとした症状とは、例えばこんな風です。
いつも、イライラして何も手につかない。
ゆううつで、仕方が無い。
虚しい。
人間関係が、苦手だ。
しかし、精神科の診察室の中では、精神科医によるどのような治療(対応)がなされ、それがどのような結果を招くか、ご存知ですか。
ある種の性格傾向を持った人が、精神療法を受けたが為に、病理も悪化拡大させられ、その結果、薬物中毒・リストカット(手首を切る)・自殺・一過性の精神病状態にまで追い詰められるのです。
これは、若い女性患者に多く、治療した精神科医のほとんどが若い男性の組み合わせです。これから、少しそのことを説明していきたいと思います。
人間ある種の作用(精神療法など)に長時間されされると、医原性のボーダーラインになると思います。
ボーダーラインとは、内在化された対象関係の病理であり、治療関係の中で展開する症状であり、いわば「医原性」のものです。軽症のボーダーラインが急増化にあるといいます。まだ確立した治療法も無く、どこの病院でも対応に、おおわらわらしいですが、増加する背景には、人々が気軽に精神科を受診するようになった最近の風潮も大いに関係あると思います。外来を訪れる若い女性の7割がボーダーラインだそうです。
ボーダーラインの増加の理由には、都会ほど多い事、核家族化、社会地域との関係など、いろいろありますが、私はここでは、一年前の自分の災難(?)といいましょうかに基づき、軽症のボーダーラインが精神療法家の手にかかったが為に、病理を悪化拡大させられた例のみ書きます。重症のボーダーラインについては、示しません。重症の人たちとは例えば、非行・家庭内暴力・登校拒否・拒食症などに見られます。ボーダーラインとは、一人でやっていられない病気で二者関係の中で、一番現れやすく、ボーダーラインのいる所必ずといってよいくらいパートナーを得て病理の花が開くのです。
では、私のその災難をお恥ずかしながら告白したいと思います。私のような、いわば犠牲者をこれ以上だして欲しくないのと、精神科とは人間の心を扱う所です。もう少し慎重に女性の心を扱って欲しいという願いからです。
H1年4月、T大学病院精神科を主人に付き添ってもたって、受診しました。精神科など初めてでした。それから、半年間、2週間に1度の通院が始まりました。
主訴(生活する上で、一番困っている症状)は、毎日イライラして子供に当り散らし、家事をやる気がしない。軽い抑うつ。かといって寝込むほどではなくて、外食に行こうなどというと、パッとオシャレに着替えて出かけてしまう。でも、1日の感情の起伏は激しい。
このような症状は、いわば性格的なものであり、周期的に訪れました。イライラする日は、店屋物ですませたり、自分の服を買ったり、それなりにどうにか生活することは、出来た訳です。精神病ではないわけですから。又、神経症(ノイローゼー)とも、ちがいます。
通院した4月から1年後の4月に、私は、入院になりました。精神化の外来も初めてなら、入院も初めてでした。精神錯乱に陥り、診断は「一過性の精神分裂症」と言うことでした。
約2ヶ月の退院後、私は治療者(主治医の事)から、「境界例」、又は「ボーダーライン」という耳新しい言葉を聞き、なぜ自分が分裂状態になったのか、あんな事は初めてだったので、是非ハッキリさせたいと思い、医学専門書を十数冊繰り返し読みました。
そして、これを書いている訳です。
精神病体験などと言うものは、不欝は体験できる事ではありません。
また、してはならない事です。
まして、精神科医が追い込むなど・・・。
例えば、刑務所などで拷問のようなことに長期間されされると、一過性の精神病状態に陥るそうです。肉体的、精神的に強いストレス下におかれれば、人間誰しもそうした状態に陥っても不思議ではないのです。
話が、前後しますが、
H1年4月から、T大学精神科を受診した事は、もう書きましたね。
そして、精神療法が始まった訳です。
洞察療法でした。無意識をさぐるこの技法は、週1回の面接でも困難でありより深窓にある問題を徹底操作するには、時間も必要であるとアメリカのボーダーライン研究家ガンダーソンなどは、述べています。私の治療者は、これを2週間1回で、行いました。かなり無理があったのではと思います。この技法は、患者の無意識下の葛藤を引き出し意識下させる事でカタルシス(昇華)させ症状を消し去る療法です。
初診でたまたま診てくれた医師が主治医(治療者)になり、それはいきあたりばったりです。私の治療者は30歳位の熱心そうなスラリとした医師で、精神療法家でした。精神科医と一口に言ってもいろいろな療法があり、全てに精通している医師など一人もおりません。例えば、精神療法家・精神分析医など、それぞれのパーソナリティによって、おのずと得意とする技法が決まってくるのでしょう。
お父さんについて書きなさい。現在のお父さんでなく、あなたの小さい頃のお父さんを思い出して書いてください。そして、男というものをどう思っているか書いてきなさい。」と、言いました。
小さい頃から、母は過保護で、父は子供を拒否するというか、父親らしからぬ人で、いつもイライラ、すぐカーっと怒鳴り、職業こそ大学出の銀行員でしたが、酔うとけんかをしたり、娘として愛されてみたいという思いが強く淋しい思いをした事など書きました。
そして、男性に求める事は、私の全てを受け入れ、冷静で客観的で、けっして乱れる事無く、道徳や倫理を1つ1つ諭すように教えてくれる人です。
父の事をレポート用紙2枚位に書いてくと治療者は、その行間から垣間見える無意識を引っぱり出し解釈していきました。
例えば、こんな具合に、
「そうです。あなたの求めているのは、これはまさしく父親です。愛情が足りないと赤ちゃんは大きくなれません。あなたは、ずっと父親を求めていたのですね。これは、のちのち異性愛の発達に影響を及ぼします。今、あなたは、ご主人が父親代わりになって、娘のように甘えていますが、これから少しずつ妻として成長しなくてはいけません。でも、小さい時、そうやってお父さんに叩かれたりしたのは、かわいそうだったねー。」
治療者にやさしくうながされると、心が和んできて、ボーダーラインの私は今目の前にいる若い治療者が理想の父親像のように、イメージしてきて親近感を持ちました。
「次回は、お母さんについて、同じように子供の頃のことを思い出して書いてきてください。それと、女友達のこと。では、2週間後に。」
__母親はいつも過保護。マザコンだった事。母が、心配性で、高校(女子高)の時、男の子からの電話も取り次いでくれず、デートに行くのは不良だと言って行かせなかった事。門限が6時だった事。など、書きました。
「これは、お母さんによるSEXの禁止ですね。あなたは、小さい頃はお父さんから、思春期に入ってからは、お母さんから、圧力を受けたのですね。普通、思春期に入ってから父親からきびしく門限などされる方が、多いのですけれどね。女友達との付き合いは、一方通行ですね。また、1対1で付き合いたかったんですね。」
私は、人付き合いが下手なのです。
そして、かわいそうでしたねと、やさしく共感を示しました。
このあたりから、治療者に対する陽性の感情が芽生え、治療者は私を理解し受け入れてくれる人とう信頼感が湧いてきました。
「次回は、あなたの初恋の人の事を書いていらっしゃい。それと、ご主人の事。」
「えっ。先生、初恋の人の事ですか。}
「そう。恥ずかしーい?いつも、あなたは、そうやって伏目がちに斜左の方ばかり見てますね。恥ずかしいの?」
実に、若い女性の心を、やわらかく包み込むように言い、女性の扱いの上手い人でした。
初恋の人と主人のことは、紙数の関係上、ここでは省きますが、最後の解釈でふれたいと思います。
文章の行間から垣間見える無意識を引き抜き解釈し、イメージをふくらませていく、センスと感受性は、服のセンスと同じくらいいい人でした。これらは、ボーダーラインの特徴でもあり、私の得意とする所でもありました。精神療法家とボーダーラインは、類似点が多く、お互いイメージを愛好しあたかもそれを現実のように、精神療法家が扱う所が、ボーダーラインの錯覚を助上するのかも、しれません。精神分析療法とは、別の言い方をすれば、二人だけのイメージの世界を旅する事です。このあたりから、過去をいろいろ想起し始め児童期についての失っていた記憶を一つ一つ再現するようになって行きました。これは、本当に自然にそうなって行きました。
___父から拒否されてばかりいた私は、小2から思春期まで毎日男装を好んで通学しました。髪も男の子のように、短く刈りあげました。これは、後々異性愛の発達に大きく影響がある事ですかと聞くと「そうです。」という答えが返ってきました。私は、自分が女の子として生まれた事をどうしても、喜べなかったのです。
小学校時代の親友、クラスメートのこと、好きだった男のこの事、など一つ一つ記憶が目の前を通り過ぎました。
その時、無意識の中から、眠っていたはずのとんでもない記憶が引き出されてしまいました。それは、急に目の前に浮かび上がり、圧倒的なイメージで、一瞬私は、記憶の洪水に押し流されそうになりました。
___それは、8歳の夏休みの記憶で、性的な外傷体験でした。
イヤでした。不潔でした。恐怖でした。この恐怖心を治療者にどうにかしてもらいたくて、告白してしまいました。
でも、その時心の底の底で一つの洞察をかすかに感じました。自分では、それを気づくまいとしていたのかも知れません。
それは、こういう事です。
これは、私の持ち前の潔癖さから来る一種の恐怖症のような症状として現れている、治療者に対する恋愛転移ではないのだろうかと。
___私は、先生を好きになったのかと___
でも、その時は、そんな心の底まで冷静に見つめるより、過去の記憶の圧倒的イメージにうちのめされ、不安発作(心理的原因で心臓の病気ではないのに、ドキドキ止まらなくなる発作)で真青になり、声も出ないかと思いました。治療者もこのままでは、失声(ヒステリーの一種)になると判断したのか、何か喋らせました。過換気症候群が起こるかと思い自分で懸命に抑えようとしました。油汗がダラダラと流れ、椅子に座っているのがやっとでした。
この治療の山場ともいうべき、成否を決めるキーポイントとを、治療者は若さと未経験さゆえか実に慎重を欠いた方法で、処置してしまったのです。
診察室で過換気を起こしかけて、苦しんでいる私を、落ち着かせる事もせずにそのまま帰してしまったのです。
私は、駅までの10分間、人に見られるのが恥ずかしいほど足がガクガク震え、めまいがし、吐き気がしました。道行く人が何人か顔を覗き込みました。何度、病院に戻ろうかと思ったか知れません。でも、恥ずかしかったのです。昼食もとれず、その日処方された薬を飲みましたが、相変わらず不安発作はひどく、一週間が続きました。
でも、初めてかかった、この若い治療者をひたすら信じていました。苦しんでいる私を返す時、「無意識からいろいろなものが出てきて苦しいけれど最後まで頑張りましょう。」と、言われました。
具合が悪くなったので次は、一週間後の予約でした。私の症状をどう治めるか、いわば精神療法の山場、成否のかかった腕の見せ所だったのでしょう。それをまたというより、根からのサディストなのかも知れません。又、美しいものだけを見ていた人でした。治療者は、全く私の症状や訴え(イメージがいかに恐ろしいか)を無視してしまいました。いつもは、個人精神療法なのに、隣に研修医を一人置いて、ボーダーラインは1対1の関係を好み、特に本音を暴露する精神療法にはコミュータスを求望します。
でも、これで、私の心の奥底にかすかに感じていた洞察は、浮かび上がり、平静さを取り戻しました。
___過去の外傷のイメージは、私の潔癖な葛藤からくる治療者への恋愛転移に他ならなかった事を。しかし、この洞察は、大いに私を恥じ入らせ、傷つけました。
過去の外傷とは、こんな事だったからです。小3、8歳の夏休み、家で働いていたお手伝いが結婚し、そこのアパートへお手伝いと仲の良かった親戚の女子大生と一緒に行きました。そこへ、お手伝いの弟が田舎から出てきていました。お手伝いは、弟を紹介する時、「弟は18歳なの。」と、確か言いました。人見知りの激しかった私は、なかなか、なつきませんでした。でも、そのうち、「セミ取りに行こう。」と、少しなまりのある言葉で誘われ、ザリガニを取ったりして楽しい半日を過ごしました。虫かごにセミがいっぱいになった頃、男は、私を人気の無い竹やぶに誘いました。そこは、小高い塀に囲まれ、雑木林の中で、人もめったに通りませんでした。暑い日でした。降りしきる蝉時雨の中で、私は生木の裂ける音を聞きました。
私は、まだ何も知らない年齢でした。
中1の時、初めて、性行為の話を聞き、ひどいショックを受けて、自分には生理は始まって欲しくないと思いました。私は、ストイックな少女でした。それから、歳頃になって、15歳16、17と年齢が上がるにつれ、あと少しで自分も18歳になれる。18歳になれば、あの男を越す事が出来る、と、いわば脅迫的にその事を忘れようとしました。そして、18歳の誕生日の朝、これで少し楽になれたと言うか、自分は越えたのだと自分に言い聞かせ無意識下に沈めることが出来ました。
しかし、いくら洞察や恋愛転移に気づいても、カタルシス(浄化)は、出来ませんでした。せっかく眠っていた恐ろしい記憶を意識化させられた為、目の前に焼きついてしまった恐ろしいイメージ・不潔感・治療者に向けた自分の許しがたい羞恥心・罪悪感が一つに融けあい、大きなイメージとなって私の心を占領してしまいました。私は、あの時、恋愛転移と同時に、過去に傷つけられた恐ろしい男をも治療者に転移し、アンビバレント(両価的)な感情に苦しみ、利両者を好きだと同時に憎しみや飲み込まれ恐怖はボーダーラインの特徴の一つです。過去の記憶を直視させた治療者をサディスティックだとも感じた事でしょう。
今、思います。もしも、あの時、診察室で過去の外傷のイメージに圧倒され苦しんでいた私をあのまま帰さず、せめて落ち着くまで側においていてくれたらと。恐れおののいていた私を、しっかり受け止めてさえいてくれたら。あせらず、あんな対応をしなかったら、カタルシスでき傷は永遠に癒されたろうと。そうすれば、7ヵ月後に精神分裂状態になど、追い込まれる事などなかったでしょうに。
治療者による病理の悪化拡大
それから、私のボーダーラインとしての本格的な病理が展開されていきました。一時的には、症状を治めたものの、私は治療者に弱みを握られ羞恥心とで、どんどん自分が飲み込まれ消えていくように感じました。この頃から症状として離人感がひどくなりました。離人感とは、現実がピンとこなくて生き生きした感情が沸かないのです。また、愛着も強かったので、治療者に「近づきたいのに近づけない」境界ジレンマにも、陥りました。
私が、大分落ち着いたのを見計らって、治療者は恋愛転移の解釈を行いました。
「あなたは子供の頃、男性による性的な被害にあった経験もあり、こういう事はのちのちアイデンティティの遅れにつながります。父親からも拒否され、いわばいつも男性からは、裏切られてきたのです。あなたは、『男性恐怖』です。あなたが、いつもあこがれ求めている父親的愛情というのは、父と娘というのは、いわば性的な関係のない間柄でしょ。あたなは、男性の愛を受け入れたいけれど、受け入れるのが不安・恐怖なのです。あなたの葛藤は、愛情に対する葛藤です。」
こんな、解釈でした。
いつも、そうでしたが治療者の文学的な解釈は、宝石のようであり、心地よい音楽のようでありました。ボーダーラインが、精神療法家の手にかかると、このようになってしまうのだと思います。
見捨てられ抑うつ
初診から5ヶ月、転移の解釈の後、治療者は症状の一応の消失を見て、治療を打ち切りたい様子を示しました。洞察は出来てもカタルシスは出来ていないのに。ボーダーラインの中心病理を見捨てられ抑うつといい、見捨てられるからには、自分は悪い人間たど、体験してしまうのです。私は、もう見捨てられるのかと悲しくなり、治療者に、しがみつきたくなりました。それから、不眠が始まり、入院の4月まで7ヶ月間続きました。
治療者は、僕のほうから電話しますから、そしたら来て下さいと言いました。
ずっと、電話だけを待ちわびました。ありませんでした。12月は、診察はしないで薬だけという受付の箱にカードを入れて、眠剤をもらってきました。その後も、電話はありませんでしたが、2月に診察に行って、眠れないことなど話しましたが、眠剤をくれて、僕から電話したら来て下さい、と言いました。サディスティックな人だと思いました。さんざん、転移をうながすようにしておいて、転移が起きたらそれを解釈して転移の消失をはかる。__精神療法とは、そういうものです。だから、犠牲者が多いのです。不眠は、対象を失った事による、いわば、薬への移行対象で、アルコールに走る人もあります。入眠障害・早朝覚醒・夜2時過ぎまで眠れず浅い眠りについて、4時には目覚めてしまいました。毎日、頭の中がこうこうとしていて2百ワットの電球が百個位頭の中についているようでした。
47Kgあった体重が42Kgになり、ついに私の方から4月に電話をして助けを求めました。限界でした。でも、まだこの時は、正気でした。
精神療法の犠牲者
「先生、全然眠れません。」
「全然?あと何か症状出てる?」
「多分、離人感(現実感が失われている事)。それと、手首を切りたくて仕方が無い。」
「そろそろ、こっちへ来ませんか。ずっと来てなかったでしょう。」
「(えっ行ってもいいの!)次女の幼稚園が、5月まで、午前保育で、母にあづけ」
さえぎるように
「あそう。じゃ5月にしましょう。」
「そうですか。わかりました。」
___(もうだめだよ。先生。5月までは、待てないワ。)
「しばらく細かい雨のような沈黙が続き、電話は、切れました。
この時、私の頭の奥で、何かはじける音を聞きました。それは、私を、狂気の世界へと追いやりました。魂が抜けたようになって、ボーとなり、手首を切り、かすかな 滴の中で血の流れる傷口を見ていました。何とも言えない恍惚状態でした。
傷は、8針縫いました。
その後、続けざまに左手首、腕、右手首と数箇所切り付けました。
あの、はじける音を聞いた時から、一過性の統合失調症(分裂病)に陥ったのでした。ボーダーラインの病理は、失った治療者と自分とは重なり合って体験しているので、自分の体を傷つけることによって自分を見捨てた治療者をも傷つけ罰しているのだそうです。いわゆる自己と対象との境界の混乱です。
私の統合失調症(分裂)体験
今、あの時の事を思い出すたびに、あれが、統合失調症(分裂病)者の内的世界で、彼らはそれが一過性で無いのだと思うと、何ともかわいそうで、親近感すら覚えます。
それは、こんな世界でした。
まず、離人症といって、魂が抜けたような感じで自分の考えは自分のものでなく、自分の意思と関係なく行動が起きてしまうように感じる苦しい体験でした。手足が勝手に動き、意志があとからついていくのです。そして、人のまなざしが恐ろしく、ジロジロ見られているように感じました。そして、空笑い。視覚の異常もあり、物の輪郭が歪んで見え空間がねじれていました。道を歩いていると、私とは平行の道を走っている車や人の流れが、鋭角的な角度で向きを変え私の体をめがけて、私の体をすりぬけていくように感じ、すごい恐怖でした。全ての色がイッペンに鮮やかになり、日光が4月にしては、まぶしすぎました。
統合失調症(分裂病)とボーダーラインの統合失調症(分裂病)体験の違う点は、統合失調症(分裂病)はひとりでやっている病気ですが、ボーダーラインは、二者関係で繰り広げられる病理なので、自分と治療者との区別があいまいになる点です。つまり、治療者と私との境界が無くなり、治療者の考えが、私の中に入り、私の口をつたって出たと思いました。治療者と、私の心は、一つに溶け合いつながってしまったと体験し、それがあ何とも恐ろしいのです。飲み込まれ恐怖です。治療者は、私の感情、手足までも操り動かしていると、感じました。
これで、入院になりました。
私には、何がなんだかわかりませんでした。精神科の外来も初めてなら入院も初めてでした。
入るなり、病棟の玄関のカギをガチャリとしめられました。あの音は、今でも耳の底から消えません。私は、涙があふれ、どうする事もできませんでした。ただ、ただ、ボーっとする頭で、治療者に助けに来てほしいと、心の中で叫び続けました。
自分の病室を案内されました。7人の大部屋でベッドの仕切りのカーテンもなく、「人の目が恐い」と言って泣きました。あまり、泣くので病棟の主治医が「じゃ特別室へどうぞ。」と、保護室に、入れてしましました。
保護室とは、高い鉄格子がはまっていて、むき出しのスプリングだけのベッドと、むき出しの便器だけの置いてある寒々とした独房でした。
廊下からは、トイレののぞき穴もあり、水洗の水を流す自由もありません。監視カメラも設置され、テレビドラマでよく見る刑務所のようなところでした。分厚い鉄の扉が、ガシャーンとしめられ、ガチャリと重々しい鍵のかかる音がしました。
私は、どうして自分がこのようになってしまたのか。今、どうして、こんな所にたった一人でいるのか。ただ、治療者に助けに来てもらいたい。そう思って、涙がほほを2粒3粒つたわっては、流れるのでした。
精神療法の功罪
イマーゴ 1990.10 特集 境界例 まるたとしひこ 精神医学より
精神療法、とくに精神便席的療法は、患者の性格構造の変革を通じ、日常生活の中に「私は、重要人物である。」と、思える関係を見出せるようお手伝いする。そうした治療を受けて、より成熟した形で「私は、重要人物である。」と思えるようになり、「平均的」な、現代女性に近い形で、アメリカ社会の変化の恩恵を享受出来るようになったボーダーラインの患者も少なくないはずである。
しかし、逆に「開腹はできるが、手術の仕方も傷口の閉め方も知らない外科医」にも似た治療者(ボーダーラインを適切に治療できる治療者は少ない)によって、「自分は、重要人物である。」という意識の裏に潜む強烈な依存欲求、性的いたずらなどの心的外傷の記憶あるいは底知れない激怒などを半ば強制的に意識化されたまま、その反応の激しさに恐れをなした治療者に体よく逃げられ、症状と病理を悪化されるボーダーラインも少なくない。
もっといえば、いわゆるボーダーラインの症状は、治療者との転移関係の中で生じる「医原病」なのである。
とまれ。
女性の社会的地位の確立とボーダーラインの増加は、アメリカ社会の変動を浮き彫りにする陽画と陰画なのでは、ないだろうか。
あとがきにかえて(医者によって患者の人生・寿命も変わる)
仮福 真琴(2007年8月4日)書替え
1990年12月、私の33才の時の論文「精神科医の功罪」は、今読み直すと随分と幼く純情だ。
私の32才から46才までは、誤診と誤治療の連続だった。全ての医者が外れだった。洞察療法を受けたのは1989年32才の頃のことで、ここからが私の受難の始まりだった。今精神医療を離れ、いっさいの薬物から開放され、4年が過ぎた。
4年前、私は自分のホームページ「精神科医の功罪」をこことは別のページで立ち上げ、そのカウントが1,000人を超えたらもうすべてを忘れてこのホームページを消去するつもりでいた。
だけど、この4年間で我が家の状況が随分変わった。正直、私はもう消したかった。そうこうしているうちに、長女が精神障害1級になってしまった。夫と私は、障害者の親になった。
このときから、私の考えは、変わった。
このホームーページは、もう消すことは出来ない。
精神障害は、身体・知的障害と違ってこれから直るか、どこまで良くなるか全くわからない。
だから、中途障害である精神障害の親は、弱い。
精神障害のスティグマを背負わされた長女のため、私たちには、死ぬまでにやらなければならないことがいっぱい出来た。
夫婦のセカンドライフの計画は、見事に打ち砕かれた。
私は、私自身が医療を離れて、4年が過ぎさめた眼で振り返ることが出来るようになった。
2人分のカルテを開示し、私の経験した14年間を私の眼で見た荒廃した精神医療を伝えていこうと思った。
ずさんな精神科医療 プロローグにも書いたことだが、初めての入院から退院した時いっさい通院を辞めてしまえばよかったと思う。
医者の言いなりにならずに。
退院後洞察療法(精神療法)の後に受けた、13年間の薬物療法は洞察療法以上に危険なものだった。
洞察療法の様に心に傷をつけたりしないが、それより恐ろしいのは薬剤精神病になる率が非常に高いからだ。そして、これは洞察療法だと薬が少ないので自分の言葉で書けるが、薬剤性症状がでているような多剤・多量の治療の場合自分では、その時は副作用というのがが自分ではわからない。副作用は、後になってカルテを開示した時、やっと自分でも確認できた。
そして、薬物療法を受けている御家族の方は、当事者の心の声に耳をすませて下さい。薬による副作用か病気の症状なのか解からないことが多くあると思う。医者に尋ねても、だいたいは曖昧な言葉しか返ってこない。結局、医者は解かっているつもりで、頭が凝り固まっている人が多いからだ。どうぞ、薬が適量かどうかをCP値換算位は覚えて確認してください。そして、精神障害者家族会に参加し、いい加減な精神医療に対する対策を考えてください。セカンドオピニオンは積極的に利用した方がいいと思う。
もっといい医者に出会えれば、私の人生もかわったが、過去はもどらないので嘆いても仕方が無い。失った時間は戻らない。
ただ、痛切に思うことは、医者も保険診療で短い時間しかないのが現状だろうが、短い時間の中で患者としっかり向き合って頂きたい。そうすれば、このような悲劇は生まれず人生丸ごと無駄にしてしまった患者も少しは減ると思う。
完
仮福 真琴
